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序論?その2(本音編) 那須武秀 ■K社の倒産 宮城県の地元紙・河北新報(2002年4月6日朝刊)にこのような記事が出ていた。 ●「K工務店、破産を申請・負債は10億円」 「建築工事業のK工務店(本社仙台市青葉区、資本金3000万円、K社長)は5日、仙台地裁に自己破産を申請した。負債総額は約10億円に上るとみられる。民間信用調査機関の東京商工リサーチ東北支社によると、同社は1954年創業。個人住宅やマンションなどに加え、学校、幼稚園などの建築を幅広く手掛け、県や仙台市の公共工事を受注した実績もある。96年10月には売り上げが24億円を超えたが、2001年11月には7億円台に激減し、資金面の悪化で経営が厳しくなっていた。」 ●地元経済誌・(「東北経済」)のホームページに、K工務店の決算書が掲載されていた。 〈株〉K工務店:資本金3000万円/K社長/仙台市青葉区、TEL XXX−×××−×××× 売上高7.1億円 減収減益/建設工事低調、原価管理に課題 12/10(40) 11/10(39) 売上高 7億1,220万円 9億0,316万円 経常利益 137万円 571万円 当期利益 67万円 180万円 倒産に至る当期の利益は、67万円である。完工高の0.094パーセント。これは、利益とは言えない。信じられない数字である。 逆にどうやればこんなに利益が少なくなるのだろうと首をかしげたくなる。これまで積もりに積もった借金の返済で利益分が食われたのだろうか?今後、10億円の負債はどうやって返すのだろうか?当然、社員の退職金は払えないだろう。また社員の再就職の斡旋なども当然ながら出来なかったに違いない。結果として社員は文字通り路頭に迷う。 また当然、専門工事業者(サブコン)の未払い金も10億の何割かはあるはずだ。小規模でK工務店の仕事ばかりやっていた弱小サブコンは連鎖倒産の危険性もある。地域経済に与える影響も大きい。 ■地方中小ゼネコンとは何か? 現在、地方中小ゼネコンは、大きな危機を迎えている。だが、実は、この認識は、彼らにはない。社会現象として倒産が相次ぎ、それが新聞などマスコミをにぎわせば、誰だって危機感は持つ。だが、幸か不幸かK工務店の倒産に続いて次々と倒産は起こらなかった。表面的には、地方中小ゼネコンは、まだ会社を維持しているように見える。これが、かえって問題なのである。 私が建設業青年会に入り立ての頃、非常に驚いたことがあった。私が、「われわれ地方中小ゼネコンは…」と話し始めたら、「何だそれ?」と聞くヤツがいた。自社のことを、地方中小ゼネコンとは思っていない。当事者意識がまるで欠落している。悲しいほどノーテンキなのである。 「では、あなたの会社は何ですか?」と聞くと「土建屋だ」と答えた。確かにそうには違いない。だが、それは、「業種」であって、会社を経営する視点から見たら、完工高や従業員の規模の問題を含んだ自社の把握方法があるはずだ。私はそれを「地方中小ゼネコン」と言っているのである。 「地方中小ゼネコン」とは、完工高が20億から30億、社員数10〜30人で、戦後の復興期に続々と創立した社歴40年から50年の会社である。「地方」とは、これらの会社の受注の範囲を示す。つまり、受注する仕事の範囲が、地元の県・市・町・村を超えないと言うことである。文字通り地元の仕事をする建設業者である。 彼らは、非常に似た経歴を持つ。ほとんどが戦後復興期(昭和20年代後半から昭和30年代前半)に創業して、最初は、民間の建築工事(住宅中心)を中心に受注していたが、次第に建築分野の公共工事を受注し、更に土木部門を増やしてきた。その結果、受注の多くを公共工事に頼るようになり、建築と土木の公共工事を中心として、社業をのばしてきた。 戦後から高度経済成長期を通じて、公共工事が増え続け、社業は大きく飛躍してきた。好況の時は、民間工事が増え、不況になっても、公共工事に支えられるため、建設業は「万年好況産業」と言われて、本当に笑いが止まらない時期があった。業界で豪華な外国旅行を行い、それこそ湯水のように金を使い、そこでゴルフをしながら、今年の官庁工事の分配を話し合っていたこともある。 しかし、バブルがはじけ、平成不況となり、政府が景気刺激策としていくら公共工事を増やしても経済波及効果が得られなくなってきた。既に、産業構造の中心は、第3次産業中心にシフトしており、2次産業である建設業にお金を落としても、3次産業へなかなか金が回らない状況になっている。その結果、経済界からもニューディール政策的な景気刺激策が疑われるようになり、かつまた、景気の低迷で政府の収益が減ったこと、公共的な建設物は、戦後ほとんど建てられてしまったことなどが原因して、公共工事が減少し始めた。 公共工事に依存する体質になってしまった地方中小ゼネコンは、現在、非常に苦しい状況下に置かれているのだ。 ■誰が鈴をつけるか?〜赤ひげが必要だ! だが、この認識は、残念ながら当の地方中小ゼネコンには届いていない。高度経済成長期のあの夢が忘れられない。「今、平成不況だ何だと言われているが、ここでじっと我慢すれば、そのうち、代議士の先生が何とかしてくれる。今に必ず好況が来るはずだ。それまでの我慢だ。」と思っている経営者がごまんといるのである。 私は、それこそが危機だと思う。この危機をしっかりとした分析とデータを基にして描き出さねばならない。それをちゃんと彼らに伝えなければならない。そして、しっかり危機に対処し、会社をきちんと閉じる=安楽死させるべき業者は安楽死させ、転生できる会社は、新たな地方中小ゼネコンに生まれ変わらねばならない。そうしないと、必ず、いずれ第2第3のK社が生まれ、地域経済はがたがたになってしまうだろう。 今、安楽死の権限も持つ地方中小ゼネコンの赤ひげが必要だ。誰かがこの仕事をしなければならない。その役目を私が全て引き受けるには、力が及ばない。だが、せめて論文には出来るだろう。この論文を基にして彼らに語りかけられないであろうか?せめて警鐘ををならすことが出来ないだろうか? この論文は、これらの地方中小ゼネコンの経営者、そして、社員、それに連なる専門工事業者に読んで頂きたい。そう思って書く。だから、学問的な論文の書き方は完全に無視する。難しいことばも使わない。わかりにくい表現も避ける。そうでなければ、何も伝わらない。 とにかく書く。彼らに向かって書く。それが急務だ!博士論文にするかどうかはその次だ! (もう完全にその気になってしまった。僕は、この論文をひとまず書き上げ、そして更に分かりやすくするために、マンガにするつもりである。かくして博士論文はその次になってしまった!) ■危機をどう分析するか? この危機を単に危機だ危機だと騒いでも何も伝わらないし、彼らを変革する動機付けにもならない。そこでどうするか? まず、N建設を俎上にあげる。 N建設は、この危機をN建設の現実に照らし、必死になって分析を行い、そして真剣にその将来を見越して、会社を閉じる決心をし、それを実行した。 似たような会社が多いはずだ。読めば、思い当たるところも多いはずだ。 その分析を骨格として、それを裏付ける一般データを肉付けして、更に説得力をもたせるのだ! 早速始めよう! ■N建設の危機分析〜N建設はなぜ自己解体したのか? 危機の形は、多面体である。一方から眺めても分からない。その全貌を描くには、立体的な書き方が良い。そして仕事の流れで整理すれば分かりやすい。 1.営業体質の問題分析 (1)営業部の体質 N建設は、営業が2人いた。営業部長と営業部員である。この2人は、何をやっていたか? N建設は、こんなことを言う営業を平気で雇っていたのである。(今、考えても腹が立つ) 営業は、毎年、決まって入ってくる官庁工事を、業者の序列や順番を守りながらただ取れば良かった。 当時は、官庁工事であれば、黙っていても粗利で10%は儲かった。うまくやれば15%は行く。とすれば、年間、官庁工事を合計8億取れば、8000万円から1億2000万円は儲かる。N社は、会社の人件費、諸経費を全て入れて一月1000万円かかる。1億2000万円儲かれば、12ヶ月食える。つまり、これだけでもう既に1年食えてしまう計算なのだ。(実際にゼネコンの経営者に計算させて比較させる) (2)社長と専務の営業 一方、社長と専務は、民間工事を営業していた。社長は、もちろんこれまでの信用や人脈がある。そしてライオンズクラブに所属して様々な人脈を築き、その関係から仕事を取ってきた。 専務は、営業の方法を知らない。大学から現場に行き、現場をやっていたら、仕事がないから営業をやれと言われて、営業と設計をやる「社長室長」という役職に就かされたのだ。誰も民間営業を教えてくれる人はいなかった。考えてみれば、社長もそうで、男一匹、ゼロから自己流で営業を行い、会社を続けてきたのである。だから、その社長も営業のノウハウというものはない。社長は技術屋出身である。ひたすら、誠意と技術のN建設を通してきたのである。また、営業部長は、民間営業などやったことがないから教えられるわけがない。彼から聞いた民間営業のコツは、「民間営業20年」の一言であった。これではどうにもならない。 だが、それで仕事が取れた時代は良かった。 専務が営業の仕事に就いたとき、世の中は大分変わっていた。住宅の仕事は、必ずと言って良いほど、ハウスメーカーがライバルになった。ハウスメーカーに勝つ営業が出来なければならない。男一匹の論理では通用しない。だから、設計力で対抗しようとした。(できれば、コストでも勝ちたかったのだが、後で、利益体質で述べるように、それは無理だった。)最初のウチは、まるで仕事が取れず、社長営業の仕事の設計を行っていた。N建設には、設計部などというものはない。専務が一人で設計していた。 それでやっと仕事が取れたとしても、せいぜい2000万円である。かたや、官庁工事は1億〜3億単位である。2000万円だって相当なお金なのだが、当時のN建設のゼネコン体質で見れば、たいした金じゃないと言われる。利益だって民間はそうそう上がらない。リスクだってある。だから、専務営業は、たいして会社に貢献できずにいた。努力する割には肩身が狭かった。官庁工事をひっくり返すくらいの威力は持ち得なかった。 しかし、社長営業の限界も見えてきた。その象徴となる一件が、T皮膚科医院改築工事であった。 T先生は、社長の顧客であり、非常に信頼が厚かった。その延長で専務も厚く信頼され、T氏邸の改築や文蔵の設計施工の仕事が取れた。だが、T先生のご子息が帰郷して、T皮膚科を改築されることになったとき、主たる発注者は、ご子息であった。いくらその父上であるT先生の信頼があったとはいえ、それはそのままご子息には通用しなかった。いわば、世代が変わったのである。社長の人脈は、世代交代とともに実質的な仕事を生み出しにくくなっていった。 専務は、ここで、新たな民間市場の開拓というテーマを自覚せざるを得なくなった。だが、相変わらず、会社は、官庁工事中心であり、専務に力を貸す営業は存在しなかった。専務の孤独な民間営業開発は、住宅事業部発足までしばらく続いたのである。 (3)談合システムの問題 1986年(昭和61年)2月、建設省(当時)から「二十一世紀への建設産業ビジョン」が発表されて以来、専務は、ある種の危機感を感じ始めていた。 専務にとって「有効競争」とは、談合の排除を意味するだけでなく、建設業者が、その内部改革を通じて、コストや技術の開発はもとより営業力や設計力や組織運営などのソフト面も含めて、自助努力を行うべきものと受け止められた。それができない企業は、「不良・不適格業者」と判定され、公共工事の指名からはずされていく。 もとより専務が感じていたN建設の問題点は、この自助努力の不足であった。営業の姿を見ると完全に官庁工事の談合システムにあぐらをかいている。まるで、この仕事の取り方が永遠に続くかのような印象であった。専務の認識には、談合が果たしてこの先続くだろうかという疑問があった。 専務が仙台に戻ってすぐ建設業青年会に入ったとき、非常に奇異に感じたことがあった。それは、青年会で行われる海外旅行である。会員は、皆、海外旅行のことが話題になると一種独特の卑しい笑いを浮かべた。今年はどこに行くのか?と訳知り顔の先輩会員が嬉しそうに下卑た笑いを浮かべながら執行部に聞くのである。しばらく専務はその笑いの意味が分からなかった。 海外旅行は、「先進地視察」という名の下に行われていた。しかし、場所は、アジア諸国、フィリピンや韓国などで、どこが先進地なのか?専務には理解できなかった。 参加するかどうか考えあぐねて、専務は、N建設の営業部長に先進地視察の実態を尋ねた。そして非常に驚くべき事を聞かされたのである。 先進地視察とは名ばかりで、内実は、一種の「買春旅行」であった。なぜ買春旅行をするのか?その論理は、明快であった。非常に書きにくいことだが、ここで書いておく。その目的は、談合の結束を固めることである。買春ツアーで、同じ女性を複数の会員が抱く。そこで、彼らは「穴兄弟」としての契りを結ぶのである。まるでやくざの世界である。そして、君と僕は穴兄弟だから談合の世界でもしっかり協力しようねという緊密な関係を取り結ぶのである。 あまりに幼稚すぎて専務は怒るよりも笑ってしまった。もちろん参加は断ったが、青年会の存在そのものがおやじたちがやっている談合体質を何の疑いもなくそのまま引き継いでいることに非常に疑問を感じた。これでは、どこが青年会なのか分からないではないか。おやじたちの世代の抱えている矛盾や問題を解決していくことが青年たる次の世代に課せられた一つの目標ではないか。その自己認識が丸でないのである。 もちろん、不参加であることはそのまま青年会の中での孤立を意味した。だが、批判的な2代目も少なくとも一人はいた。専務は後でそのM工務店のMと友人になることになる。 専務は、談合は一切拘わらなかった。それはある意味でN建設の営業部長の地位を奪うことでもあったし、旅行に参加しない専務には、談合に参加する資格はなかったとも言える。もちろん他の2代目達は、青年会の旅行で培った義兄弟の契りを基にして、談合に参加していた。 一定の冷却期間が過ぎて、専務は、青年会の実態をこう理解するようになった。 「これはチャンスである。地方中小ゼネコンの跡継ぎは、ほとんど談合のことしか考えていない。自助努力など一切していない。とすれば、N建設が本格的に努力すれば、勝てるだろう」 この認識の基に専務は自助努力の方策を練り始めた。
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