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「那須建設・解体始末記」
那須武秀
●K工務店、破産を申請・負債は10億円
■先日、宮城県の地元紙・河北新報(2002年4月6日朝刊)にこんな記事が出ていた。
「建築工事業のK工務店(本社仙台市青葉区、資本金3000万円、K社長)は5日、仙台地裁に自己破産を申請した。負債総額は約10億円に上るとみられる。民間信用調査機関の東京商工リサーチ東北支社によると、同社は1954年創業。個人住宅やマンションなどに加え、学校、幼稚園などの建築を幅広く手掛け、県や仙台市の公共工事を受注した実績もある。96年10月には売り上げが24億円を超えたが、2001年11月には7億円台に激減し、資金面の悪化で経営が厳しくなっていた。」
■地元経済誌・(「東北経済」)のホームページで、K工務店の決算書をみるとすごい!
〈株〉K工務店:資本金3000万円/K社長/仙台市青葉区、TEL XXX−×××−××××
売上高7.1億円 減収減益/建設工事低調、原価管理に課題
12/10(40) 11/10(39)
売上高 7億1,220万円 9億0,316万円
経常利益 137万円 571万円
当期利益 67万円 180万円
倒産に至る当期の利益はなんと 67万円である。7億やって67万円!?完工高の何パーセントに当たるか計算する気にもなれない。逆にどうやればこんなに利益が少なくなるのだろうと首をかしげたくなる。これまで積もりに積もった借金の返済で利益分が食われたのだろうか?今後、10億円の負債はどうやって返すのだろうか?僕は、当事者じゃないからノンキなことを言っていられるが、社員の退職金は払えないだろう。また社員の再就職の斡旋なども当然ながら出来なかったに違いない。結果として社員は文字通り路頭に迷う。
また当然、専門工事業者(サブコン)の未払い金も10億の何割かはあるはずだ。小規模でK工務店の仕事ばかりやっていた弱小サブコンは連鎖倒産しなければよいが・・・。
■先代の社長のKさんは、おやじ(那須建設社長)にしきりに「(会社を)やめたい、やめたい」と言っていたそうだが、ついにやめるタイミングを逸してとうとう倒産まで行ってしまった。
「ウチはタイミング良くやめられて良かった」とおやじから、改めて感謝された。お袋の話では、同業者の旅行会で一緒に行ったハワイでKさんの奥様が「うちはアパートや土地なんかいっぱいあるからたとえ仕事が無くなっても安泰なのよ」と言っていたそうだが‥・。
■現在の社長のK氏は、僕と建設業青年会で一緒だった。僕より確か3つくらい若いから43歳位だろうか。同世代の青年会の仲間の中からついに倒産企業が出たのだ。心情的には同情を禁じえないが、僕には当然来るべきものが来たという「乾いた感想」しかない。
那須建設もあのまま続けていたら確実にK工務店になったのである。僕とおやじは、会社を解体する数年前から、その姿がありありと見えていた。今回の倒産は予想可能な範囲で予想どおりの結果が出たに過ぎないとも言える。予想は当たっていたのである。
●地方中小ゼネコンの典型
■那須建設は、自己資本が多く借金が少ない体質で銀行から「地元の優良企業」といわれ、技術的にも優秀で、ある程度の人材もそろっていたのに、なぜ会社を継続することができなかったのか?…いや、なぜ自ら進んで自己解体に向かったのか?
■この間いに答えるために、以下、状況把握と分析を行いながら、その原因の深層を探っていく。
■那須建設はある面で「地方中小ゼネコンの典型」と読み替えても良い。
ここで言う「地方中小ゼネコン」とは、完工高が10億から20億、社員数20〜40人で、戦後の復興期に続々と創立した社歴40年から50年の会社である。受注の多くを官庁工事に頼り、建築と土木の公共工事を中心として、社業をのばしてきた会社である。
■那須建設は、戦後復興期・昭和30年(K工務店の1年後)に創立し、当初は民間工事主体であったが、次第に公共工事の受注が80%以上を占めるような公共依存型の経営体質に変化してきた。
地方中小ゼネコンは、その多くが戦後創立し、最初は復興の名の下に建設分野が主体であったが、徐々に土木分野に進出、組織、人員を充実させ、土木建築の分野で公共工事を受注する体制になったものが多い。その理由は土木工事の方が粗利益率が20%を超えるほど高く、受注効率がよく会社経営の貢献度も大きいためである。そのため当初、建築から出発した会社でも次第に土木分野をのばしていき、現時点では、建築土木両方で、経営の主体を土木で支えている会社が大半を占める。
■しかし那須建設は土木分野の進出を行わず、建築分野のみを主としてきた。これは、おやじの経営の「怠慢」とも言える。だが、おやじには、建設技術者として、どうしても利益のためだけに土木分野に乗り出せなかった一種の「美学」があった。この意味では、一般的な地方ゼネコンとは言えない。一つの特殊解であるが、それだけに時代の変化の影響を受けやすい体質であったとも言える。だから自己解体へ向かったのが早かったとも言える。
●経営陣の認識の問題
■まず第一に専務を中心として「経営陣」の重要な認識の問題から分析する。
■経営陣の中核であり、次代を担う責任がある那須専務は、那須建設をこう捕らえていた。
以下おおまかな時間軸に沿ってその経緯を述べよう。
■現場を見てみると、会社の社員(現場監督)も協力会社の職人も一生懸命働いている。だが、利益率は低い。民間工事では、粗利益で2〜3%の工事もあり、官庁工事は、10%から15%を超えるが、ここ十年を見ても、官庁・民間共に横ばいか、あるいは低くなりつつある。
■これは那須建設の経営方針や体制が時代に合致しなくなったことが原因ではないか?と思われた。だが、どうして、そして、どこが具体的に合致しなくなったのか?
官庁工事中心であることと同時に多くの中小建設業がそうであるように民間工事の多くが社長営業もしくは専務営業であった。
営業部は、そういう状況を肯定してきたとも言える。自社の歴史環境からみてもそういう状況でしか営業が育ってこなかったと言えるだろう。
また、社長もそう言う状況を改革しようともしてこなかったと言える。では営業力強化はどうすればいいのか?これが専務の当面の最大の課題になった。
■官庁営業のみで育ってきた営業部長は再教育するのは年齢的にも大変であり、不可能と思われた。社長も業者営業・官庁営業が中心で那須専務に「おまえが民間営業の先頭に立て!」と指示する。だが、専務一人でやるには自分自身のストックがなかった。他社を見ると同級生などの地元人脈を有効に利用して民間工事を取得している。東京で大学時代をすごしてきた専務にはなかなか有効な地元人脈がない。高校の人脈も多くは仙台を離れていたし、まだ、自分の家を建てるにはまだまだ若い世代であった。
■そこで「既存の営業には頼れないとすれば誰か優秀な営業を入れて自力で営業カを強化するしかない」と判断し、民間営業のノウハウの導入のために何人か営業を入れたが、結局どれも定着しなかった。その原因の第一は、専務自身の営業畑での経験のなさ、リーダーシップのなさが大きいが、そのほか既存の営業の見えない抵抗、会社の中での民間営業の受注高の低さ、それに伴う民間営業の社内での地位の低さなどが要因としてあげられる。
那須建設は工事金額で民間工事を差別祝していたのである。特に2000万円クラスの住宅などは、1億を超える官庁工事からみるとどうしても軽視されることになる。(よく考えてみればわかることだが、個人で2000万円資金を集めるのは大変なことである。しかし、1億、2億という官庁工事の中では、2000万円の住宅工事は附録であった。これを「ゼネコン体質」と呼ぶ。)
■地元企業の民間工事のオフィスビルや社屋などは余程のことがない限り取得できない。
仙台は「支店経済」といわれる。東北の中心都市として、大手の企業の東北支店が軒を並べる仙台市のメインストリートである青葉通りにあるビルはほとんど東京で受注業者が決まっている。東京の設計事務所が設計し、本社で発注し大手や準大手が受注する構造である。
地元業者が入り込む隙間がない。また、発注者である地元の経済界も地元よりも大手・準大手のブランドをありがたがる傾向が強かった。
■従って民間工事の柱として「住宅」が浮上してきた。民間の住宅を中心として「住宅事業部」を作り、社内で予算を分割して一から始めたらどうか?専務は切羽つまって「住宅事業部構想」を実行し始めた。その事業部長にはこれまで住宅やリフォームや改修工事をよく経験しているベテランを据えた。(これがまたほかのベテランとのあつれきを生んだ。つまり専務のご指名で事業部長となったという社内的な軋轢や嫉妬を生んだようだ。)
■「民間工事なら住宅分野だ」という考えは、実に甘かった。もうすでに「住宅産業」と言われるように住宅は実に多趣多様なノウハウを要する成熟した独立した産業になっていた。そしてまた、住宅はクレーム産業である。
戦後の復興期の「とにかく住むところが欲しい」という単純な需要ではなく「コスト+品質+性能」そしてクレーム処理や顧客満足度(cs)の追求という成熟した「住宅産業」の段階へ、徒手空拳のまま突入してしまったのである。
■住宅事業部は、専務が受注活動を行い、高断熱・高機密を売り物とし、現場見学会の開催など様々な試みを行い、ある程度の新規受注ができた。しかし、ふたを開けてみるとはるかに予想を超えるかなり困難な問題が出てきた。
■官庁工事に慣れた現場監督は丁寧に1現場しか見ない。いや、1現場しか見れない。これはゼネコンの仕事のやり方のままである。官庁工事は、1現場の期間が長く、現場員は専従であればよい。
それに対して他の住宅会社を見ると一人で5件掛け持ちしている。その生産性で始めて利益が出る。那須建設の生産性は住宅会社の5分の1であった。短期間で会社の体質を変えることは不可能であった。
■また、この生産性の低さは、自社のみでは解決できない。本来ならば、住宅に強い協力会社のシステムができていなければならなかった。そのサブシステムに乗りながら生産性を確保しなければならなかった。だが、協力会社もゼネコン体質を持ったところばかりであり、一般的な住宅を経験するところが少なかった。それがクレーム対応の遅さやコスト面で跳ね返ってきた。
■また、施工のやり方が官庁工事の方法論を延長したに過ぎず、必ず変更工事があり、クレームが付くという住宅の独自性を理解しなかったため当初の予定利益が確保できない。
内部的には、決して人格的に問題はないのだが、技術屋根性があり、性格的にやや癖のある住宅部長が、客とトラブルを起こす。若い社員(住宅事業部)が「部長についていけない」と次々とやめる事態となった。都合3人が会社を辞めた。
■また、外部的には「施主の意識変化」があった。これは極端な例であるが、客自体が住宅業界でブラックリストに載っている「不良施主」であり、ゴネられてやすくたたかれたり裁判ざたになりそうになった。不良施主であることをさぐるノウハウもなかったし、顧客対応の社内システムも未完成で、後でトラブルにならないために用意すべき裁判資料となる「打ちあわせ記録」も整備していなかった。全くISO的な自己防衛の品質システムが出来ていなかったのである。
■事業部は初年はともかく2年目もまったく先が見えない状況で民間開発が行えない。会社の中でも赤字部門で社内的立場がないという厳しい現実にさらされてしまった。
■この不調は、T氏邸で完全に息の根を止められた。
住宅事業部が大きな危機を迎えたのは、以前から専務と交際があった東京の設計事務所・D設計事務所が話しを持ってきた「T氏邸」であった。ここで始めて那須建設は、品質管理という問題に直面する。
品質管理という点で、官庁工事と民間工事の違いは大きい。官庁工事は、工事の細部に至るまで設計図書で仕様が決められており、またそれが一般的に「施工監理指針」として文書化されている。従って、工事の品質は、これらの文書通りに忠実に仕事を進めるという形で遂行されればよい。
●それに対して、民間住宅工事は、設計図書の仕様書が、施主の了解と理解を得ていないと全く意味を失ってしまう。問題なのは、「T氏邸」の設計図書が、着工前に施主の十分な了承を得ていなかったことである。D設計事務所の事前説明がなされていなかったことに起因して、工事が始まってから施主から多数の要望が出された。
これに対して、当社は、その「意味」を全く理解していなかった。官庁工事通り、設計図書の忠実な遂行で良いと考えていたのである。ところが、よってたつ設計図書が、不十分であり、なにより施主の意向が反映されていなかった。
施工が始まってから、細部の打ち合わせに行くと、細部どころか、空間構成の基本から変更を迫られた。
この場合、あくまでも空間の提案は、設計事務所の責任であり、当社としては、自分の役割とは認識できない。これも官庁工事の延長で捕らえていた。
工事遂行の手順として、まず設計事務所と施主の打ち合わせがあり、その結果、施主の要望が設計図書に反映され、その設計図書通りに施工するという「官庁工事の常識」がまるで通用しない世界であった。
■設計事務所が東京にあり、現場が仙台という距離的に遠いこともあって、コミュニケーションは、どうしても当社が窓口にならざるを得ない状態になりやすい。
そこにゼネコン体質を持ち込むと、施主にとって遠回りの解決に見えることになる。いわく「那須建設は、言うことをきかない。施主よりも設計事務所を立てている」ということになる。
ここから工事進行のプロセスで顧客満足が得られないという問題が発生する。
当社は、施主から変更を言われると、「まず設計事務所の承認が必要である」と、つっぱねることになった。これが施主の「不安と不信」を生んだことになる。
これまで当社が行ってきた仕事では、設計事務所が施主を完全にカバーしており、施工段階では、例えばタイルの色見本を作るなど、本当に実務的なことですんでいた。
だが、T氏邸では、設計に対する施主の不満をストレートに受け、それをどうするかという問題に突き当たってしまった。いわば、設計事務所と施主との仲介役を務めねばならない立場に立たされたことになる。形として、当社が設計施工ならば、このような問題は回避できたかも知れない。だが、今回は設計事務所から来た仕事であり、設計事務所の立場を無視するわけにはいかない。また、当社の空間の提案力が、ソフトとして未熟であったことも大きな問題としてあった。
設計事務所もISO的な文書管理をしない状態で、ちゃんと施主の確約をとり、事前説明を充分に明確にしていなかったようだ。当社はこのリスクをすべてかぶった形になった。
●住宅における地方中小ゼネコンの弱点
■この経緯を地方中小ゼネコン全体に敷術してみると、つぎのようなストーリーが描けるであろう。
@地方中小ゼネコンは、自前の営業カがないため直接施主を捕まえることが出来ず、どうしても民間工事は設計事務所が介在する仕事となりやすい。
Aその場合、特に品質管理という点で、設計事務所が、施主と十分に打ち合わせをした設計図書が無い場合、施主、施工者、設計事務所の関係性は混乱する。
Bゼネコン体質があるため、施工者は、設計事務所を重視する。その結果、施主から不信感をもたれる結果となりやすい。いわく、設計事務所と施工者がグルになっていると勘ぐられる。
C施主は、この3社の関係性の中で、金を出すものとして自己主張を行う。だが、その主張は、どこが受け止めればいいのか、どこに持っていけばいいのかわからなくなり、施工現場に来てそこで現場監督を無視して直施工指示を行う事態となる。
Dだが、協力会社の命令系統も、ゼネコン体質では、すべて元請けの指揮下にある。従って、協力会社も施主直接の指示は受け止められない。元請けの現場監督の指示が中心となるのでここでも大きな混乱が起きる。すると施主は、「自分が金を出すのにどうしてそのとおりやらないのか」という大きな不満を持つ。
Eこの段階になると不信感はますますつのり、3者間の関係が修復出来なくなってしまう。
その結果、当然のことながら施主は伝家の宝刀を抜かざるを得なくなる。つまり金の支払いを渋ることになる。「自分の思い通りのものが建たないのであれば、金を支払わない」と言うことである。
F事態がこのように膠着してくると、設計事務所も施工者も資金的に苦しくなり、ますます事態は困難な状況に陥る。結果として民事訴訟へと事態は悪化する。
G民事訴訟は、時間がかかり、勝っても金の点で言えば、引き合わない。従って施工者が、すべてをかぶる形になる。この工事は利益どころか、大きな損失を生んでしまう。
H施工者としては、こういうトラブルやリスクを回避するために、何が必要かを考えねばならない。設計事務所が事前説明をして設計のプロセスの中で、施主の確認事項を文書化し、変更なども確認し監理し、しっかりした設計図書を作っているのか?この点がまず施工者として仕事を受ける前に確認しておかねばならない点になる。しかし、多くの場合、事前にこのような情報はつかめないことが多い。そのため、設計事務所との打ち合わせで工事引き継ぎの会議を開き、これまでの施主との設計プロセスの経過を知らねばならない。
だが、それは特命でない限りほとんど不可能なことであろう。
I地方中小ゼネコンは、官庁工事の減少に伴い、民間工事受注量を増やさざるを得ない。その時1番手っ取り早い方法は、設計事務所の仲介による住宅の受注である。だが、住宅建設の実態はクレーム産業といわれているように、多くのリスクを処理できる品質管理体制やシステムができていないと対応は不可能であり、赤字工事を背負い込むことになりかねない。そこでISO的なシステム構築の必要性が出てくるが、多くのゼネコンは、民間工事でISOが有効と言うよりも、官庁工事の参加資格としてISOを取得する意議しか見いだせない状態では無かろうか?
●以上のようなストーリーは、現在、民間工事、それも住宅へ活路を見いだそうとするゼネコンに共通のものではないかと思われる。こういう問題は、クレームであるが外部には漏れず表面化していないが、多くの中小ゼネコンで現在経験している一般的な問題ではないかと思われる。
ここでいう品質管理とは、あきらかにリスク回避であり、利益確保のために行われるべきシステムである。ゼネコンの実態として、官庁工事でそのような品質システムを形成することはできなかったのが実態ではあるまいか?住宅工事に転じてはじめてそのリスクを知り、品質管理の重要さを認識するのが一般的なゼネコンのケースではないかと思われる。
(それを事実として収集・研究する手段はないだろうか?小さな論文にはなると思う)
当社の場合、実際に、工事段階で設計変更になった項目は100を超えた。また、施工管理の問題で実際に浴室のタイルに割れが生じるという品質上の問題も露呈した。担当者の技術的な未熟さと、それを予測できなかった上司の責任であるが、クレームを経験してその対策や情報を共有化してこなかった技術情報の問題でもある。当社は、民間工事でこれまで、アフターサービスの体制ができていなかった。新機工事を取得するのに夢中で、建てた後の施主のフォローはほとんどしてこなかった。そのため、住宅特有の細かいクレームの情報が無く、その対応も現場員それぞれの個性によって個別に行われ、会社としてクレーム情報を共有し把握することを怠ってきた。これもまたゼネコン体質である。これは結果的に営業に対しても大きな弱点となり、せっかく捕まえたお客の増築や改築の発注が来ない、顧客からの紹介物件がないなど、営業的に致命的とも言える問題が表面化していた。
●地域と切れた地元中小ゼネコン
■地元中小ゼネコンとは、政治的・行政的に地元であるだけであり、地元の官庁工事をいくらやっても、いくら歴史があろうとも、地元の人脈を構えることは出来ない。いわば、地域と切れた関係にある。ここに現在の地元ゼネコンの本質的問題がある。「地元としての有利さ」を発揮できないのである。本質的に中小ゼネコンは、官庁工事を中心としているだけでは、地元業者として地域と結びついていくことは出来ない。地元と結びつくには住宅を中心とする民間工事部門がなければ無理だ。当社が思い知ったのはその事実である。
■那須建設のケースでは、実際にタイルなどの割れなど品質問題が発生し、結局、施主との関係性が崩れ、訴訟にまで発展した。訴訟を行うことは引き合わないので、結局、弁護士同士の話し合いになり、結局500万円の赤字を背負う形で決着した。設計事務所も 500万円の設計料を支払ってもらえず、訴訟が続いている。
設計図書の不備と言うことで設計事務所との訴訟も考えたが、結局訴訟費用の金の問題でやめてしまった。
この一連のT氏邸で起きた間遺は、工事担当者の辞職をもたらし、これから住宅に活路を見いだそうとする姿勢に大きな打撃を与えた。
これで那須建設住宅事業部は大赤字をだし、設計事務所からの紹介物件に不信感を抱き、自力の営業の非力さもあって、住宅事業部の存続の可能性が失われてしまった。
ここにいたって、官庁工事の受注減、民間工事の取得の困難が露呈し、当社の行くべき方向性を完全に見失ってしまった。
●会社解体への序章
■このことが引き金になって、会社を解体することが社長と専務の間で密かに論議されることとなる。行政改革で、また談合排除のために、官庁工事の受注はこれからますます困難になる。そして全体のパイも少なくなる。また、民間工事の受注も困難であり、何より住宅の施工のノウハウがストックされておらず、その方向性の可能性も失われた。
■もとより、解体の5年前から、社長と専務の給与は減少していた。若い社員のために限られた利益の配分で、社長と専務は自分の給料をへらさざるを得なくなっていたのである。
社長は100万円の給料を60万に減らし、専務は40万円に下落した。社員の給与は、ずっと上がっていくばかりである。最初はそれで良かった。企業は存続することが第一命題である。だから自分を責めた。経営陣が情けないので、自分で自分を罰する意味があった。
●しかし、それがだんだん「怒り」に変わってきた。なんのために経営するのか?ただ単に会社の社員を食べさせるためなのか?それでは経営者としての生活はどうなるのか?企業の存続の意欲が失われつつあった。
これは企業経営ではなく、「慈善事業なのではないか?」
経営陣に事業の続行の意欲が失われてきたのである。それと同時に先行きが見えない、会社のビジョンが見えない状況で、社長と専務は苦しみに苦しんだ。一時は自殺まで考えたことがあったと正直に告白しておきたい。何のために会社を存続させねばならないのか?という根本的な疑問が生まれてきた。このままいくとリストラで余剰人員を減らさねばならなくなる。またリストラをせずに現状を維持すれば、倒産の可能性がリアルに見えてきた。
●解体の原点
■ここで思考は原点に戻る。
おやじは、なぜ那須建設を創業したのか?戦後焼け野原になった仙台の状況を見て、彼は、これからは建築の時代と考え、それまで機械科だった専門を建築に変えた。那須建設の当初の創業の目的は、この戦後復興にあった。ところが、戦後50年〜60年を経てあらゆる建物が建ち、公共工事も充実し、あまり役にも立たないような多目的ホールが建つまでになった。住宅はフローよりもストックが多くなってしまった。那須建設の当初の目的は十分達成されたことになる。
この認識からおやじは、那領建設の歴史的役割の終焉をはっきりと認識し、今後会社を存続させていく意欲を失った。もとより僕には異存はなかった。解体を決断する背景には那頚建設の設立の目的があったのだった。
■また、おやじ自身が、那須建設創立前に、勤めていた会社で倒産を経験していた。それは全く悲惨なもので給料の遅配から始まって、社宅を追い出され、退職金ももらえなかった。文字通り路頭に迷ったのである。この経験を生かし、那須建設が、きちんと会社を解体し、社員に退職金(あまり多くはないが)を支払い、また、一定の余裕期間を与えて、再就職の運動を認め、さらに技術系社員を中心として再就職の斡旋を行った。おかげさまですべての社員が次ぎの就職先を見つけることが出来た。
おやじは、自分のひどい目にあったことを繰り返さずにすんだのである。かくて那須建設は「やめる体力」がある内に進んで自己解体へ向かった。これは現在考えるとオプコード研究所の野辺氏の助言もあったが、非常に賢明な判断だったと思う。
●地方中小ゼネコンの歴史的総括
■地方中小ゼネコンは、先述の通り、「地域に対して切れている」。僕は地域にその必要性が認められていれば会社が存続しないことはないと思っていた。だが、地方中小ゼネコンには、その必要性はなかった。では、「地方中小ゼネコンの歴史的な意味は何だったのか?」最後にこのことを問いかけてみたい。
■簡単に結論を言えば、地方中小ゼネコンは、「地方振興の官庁工事の受け皿」として機能してきたと思う。いわば、景気刺激策として、古いニューデイール政策よろしく不景気になれば、官庁工事は増え続けた。だが、ここにきてバブルがはじけ、国はもとより地方財政が苦しくなり、官庁工事の全体のパイは少なくなってきた。どこへ行っても文化センターがある中で今本当に必要なハコモノは無くなってしまったのである。経団連が果たして建設業を通じて景気が本当に良くなるのか?と疑問を呈したように、もはや建設業は、好況資金のバラマキの受け皿としては機能しなくなってきた。そして一連のゼネコン汚職から始まった「談合の排除」、「受注の透明性」など、従来の建設業の形態では乗り切れない事態が続出してきた。
■地方中小ゼネコンは、地域と結びつくことを怠り、効率のいい官庁工事に依存し、今、その受け皿としての役割を終えつつある。このような中で余程思い切った改革をしない限り、生き残る道はない。国土交通省は、ゼネコンの再編や淘汰をはっきりと明言している。
いわば、「地方ゼネコンはその歴史的使命を終えた」のである。ここで自己解体をせずに古い体質のまま、生き残ることは不可能である。僕としては新しい時代に即応した業態が必ず生まれることを期待している。それは既存の業態からは生まれ得ないことは明らかだ。
2002年4月17日
「史標48」より
P.7〜16
早稲田大学建築史研究室
O.D.A「史標」出版局
2002年夏号
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